はじめのはじめ

二次元傾倒な日々。

ひだまりスケッチ9巻の話とか。

 ひだまりスケッチ9巻を読み終わりました。昔はよく、4コマ漫画を何度も繰り返し読んでいたのですが、最近は一度読んだらケースに入れて、そのまま置きっぱなし、ということがほとんどになりました。ひだまりも、6巻くらいまでは比較的読んでたのが、それ以降はあまり記憶がない・・・・・・茉里ちゃん? ・・・・・・『結い橋』に出てきたエセ関西弁ヒロインですか?

 そういうことなので、俺が語ることといったら、やっぱりゆのっちのことになってしまいます。

 ゆのっちって、普通の女の子じゃないですか。いや、いきなり何を言い出すのかと思うかもしれませんが・・・・・・。底抜けに元気な子でもなく、かといって引っ込み思案で人づき合いが苦になる、というタイプでもない。いつもボケてるわけでもなければ、ひたすらつっこみに命をかけてるわけでもない。なんだろう、こう・・・・・・不安なことや、嫌なことがあると、ついついそのことばっかり頭の中でぐるぐる考えて、一人で抱え込んでしまうような。そしてそれが顔に出てしまうもんだから、周りの友達にも「ゆのっち、元気ないみたいだけど大丈夫?」と心配をしてもらって。本人としてはそんな自分が情けなくて、“私、いつもこんな事で悩んでばっかりで周りに迷惑かけて・・・・・・”とさらに沈んでしまったりもして、けれど宮ちゃん達に話を聞いてもらうだけでも心が少し軽くなる自分もいる、という。男から見たら『ちょっと面倒くさい』と感じる部分もあるような、普通の女の子なんですよ。

 そんなゆのっちなんですが、9巻を読んでいてつくづく思ったのは、周りに恵まれているなぁ、と。一番近くにいる──日々の生活の中でもっとも顔を合わせている時間の多いことを指すとして──宮子。毎回、ゆのの相談事を面倒がらずに聞き、時にはおもしろおかしくボケたりして。そういう、“いつも話を聞いてくれる人”が身近にいるということは、ゆのにとって何より幸福なことだったのではないかと。他の人達についても同様で、ゆのが悩み、答えを出す過程を妨げる人物がいない。むしろそっと背中をおしてあげることが出来るような人ばかり。

 まあ、周りに恵まれているのは、ゆのっちの人柄による部分も大きいのかもしれませんね。不安なこと、悩むことはたくさんあるかもしれないけれど、最後はきっと陽の当たる方──ひだまりへ進んでいくことができる。そういう歩き方のできる女の子だから、周りも安心して相談に乗ることができるのだと。なんというか・・・・・・ああ、あれだ。ゆのの笑顔に、やられてしまってるんでしょう。やばいですもんね、30ページ左2コマとか。あんな顔見たら、ずっと笑顔でいてほしいって思ってしまいますよね。

 そういう環境が続いてきたからこそ、ゆのが曲がることなく育ってきたんだよなぁ、とかしみじみと思ってました。いや父親かよ、と自分でも思いますが・・・・・・ゆのっちは可愛い。すごい可愛い。読んでいて床を転げたくなるくらいに可愛い。でも、だからといってつき合いたいとかそういうものでもない。そもそもゆのっちは恋愛とかまだよく分からないし、彼氏がフォローするべきところはすべて、宮ちゃんが完璧にこなしているし。修学旅行も友達と一緒に回って、とても楽しそうに観光してたし。周りの人達にもめぐまれていて、立ち止まることはあっても、きっと前へ進んでいけるだろうし。

 なら、いいじゃないですか、それで。

 かつての俺は、彼女達の日常の輝きに救いをもとめていました。ゆのっちの幸せや喜びがあるならば、自分の日常にそれがなくても別に構わないという・・・・・・よくわからない方法論を持っていました。不健全ではあったかもしれませんが、間違っている、というつもりはありません。きっと、それでしか得られない何かは、あったのでしょう。受けとりかたが、ひとつであるはずがない。

 けれど今はもう、そういう方法で受けとってはいない。受けとることが出来なくなった、と言ってしまってもいい。それは少し寂しいけれど、きっと、良かったと言われるべきことなのでしょう。

 だから今は、ゆの達が卒業するその時まで最後の一年間を、見守るような心持ちで読んでいます。