はじめのはじめ

二次元傾倒な日々。

サマポケはじめました。

 昨日の夜、amazonで注文していたsummer pocketsが届きました。急いでインストールして、夜通し、とはいかないまでも今日一日まるっとプレイして、鴎ルートを読了、現在は紬ルートに入ってしばらく、という状況です。keyのゲームをプレイすることは、多分リトルバスターズ以来ですので、10年くらい前、ということになるのでしょうか。そこからさらにclannadairkanonとさかのぼっていくと、20年──まあプレイしたのは十数年前ですが──ではきかなくなり……もう驚くくらい遠い過去ですね。それほどまでの長期間、一線で活動しているkeyというブランドには畏敬の念すら抱きます。
 なぜ発売からしばらく経った今、サマポケをプレイしようと思ったかというと、単純にyoutubeのエロゲソングメドレーを流していたらopテーマが流れてきて、無性にプレイ欲が掻き立てられたからです。……あいかわらず曲から入る奴だな。それ一番信用しちゃいかん要素だろ。シナリオとかキャラとかまったく関係ないし。まあ、このブランドに関しては、面白さ、という意味では不安は全くないという安心感があるので大丈夫ですが。と、そういう予想を裏切らず、夢中で今まで読み進めていました。それで、プレイ直後の感想について、文章に残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。勢いで書いているだけなので、すごく読みづらくなる予感しかしません。それでも、まあいいか。そういうのを残しておきたいと思ったから、そうしている。
 そういうわけで、summer pockets。ある島で過ごす夏休みのお話。なんでしょうね、こういうテーマで作品を創ろうとして、それが作中で一貫していて、やっぱり物語的にめちゃくちゃ面白い。単純にそれができるということが、keyが今現在でも一線で活動している理由なんだなというのが、第一印象でした。なにせ、物語が夏休みから始まって夏休みで終わるのだから、学校の描写が無い! 当たり前のことなんですけれど、まずそれが新鮮ですよね。まあ普段の俺が学園ラブコメ的なエロゲばかりプレイしているからかもしれませんが。夏休みを利用して鳥白島に住む叔母の家にやってきた羽依里、うみちゃん。初対面だということを差し引いても、彼らの共同生活はどこか歪なもので、それがもうたまりませんね。生活リズムも食生活もバラバラで、だけど同じ屋根の下で寝食を共にして、お互いに思いやりはあるけれど、必要以上に深くは関わらない。やばいですね、この家の描写がほとんど無いのはゲーム上意味を持っていないからなのか、意図的に隠しているのか。後者だったら、爆発させられた時に完全にやられるでしょうね……。ほんと、読んでいてびっくりするくらい文章のリソースにまったく無駄がなく、それでいて不自然さを感じないので、見事という他ありませんでした。
 それで、えーっと、夏休みの話でした。夏休みって、いわば非日常のひとつなわけじゃないですか。普段のルーチンではなく、祭りの日みたいに特別な。けれど祭りの日と違うのは、それがひと月以上続くっていうことで。ある程度のスパンを持った非日常なわけです。子供ならば万人に与えられていると言っていい、けれど大人になったら失ってしまう。何かを為すことができた子もいれば、取り立てて大きな出来事には遭遇しなかった子もいる。多くの友達と過ごした子もいれば、誰とも顔を合わさず一人だった子もいる。そんな思い出も、時の流れとともに忘却の彼方へ吸い込まれていってしまう。……けれど、あの夏に感じた太陽の眩しさは、うだるような暑さは、ふきだす汗は。それだけは誰しもに平等だったはずで。キャッチフレーズの『眩しさだけは、忘れなかった。』っていうのは、そういうことなのかなとか思ったりしました。
 鴎ルートについての雑感とか。
 子供の頃の思い出って、その時はかけがえのないものだと思っていても、年を取って大きくなるにつれて、大なり小なりの規模はあれど、いくつもの思い出の中のひとつになっていくじゃないですか。けれど人によっては、その『いくつもの中のひとつ』が、『たったひとつだけの、かけがえのないひとつ』になってしまうわけで。そうなった時、その思い出は、もはやただの記憶ではなくなっているんですよね。こんな自分でも得ることができた大切な宝物。それを抱えているだけで、生きていけるような、満足して消えていけるような。多くを得た人々は、それを、暗いだとか、後ろ向きだとか言って顔をしかめたりするのだろうけれど。記憶の価値は、他人が決めるべきものでは無くて。……話がそれましたね。鴎の場合のそれは、けれど、未来へ向けた願いに繋がっています。自分がもらった思い出は、皆がくれたものだから、今度は自分が渡す側に立ちたい、と。そうやって前に進んだのが久島鴎という女の子です。その軌跡を知ることが、このルートの大きな意味の一つだと思います。そしてもう一つは、思い出は自分が抱えていくものだけど、願いは誰かに託すこともできるということ。そうやって叶えた願いは、また誰かの思い出になっていく。それは控えめに言って、奇跡みたいな話で。物語みたいな物語で。だからやっぱり、めでたしめでたしで閉じられるべきなんだ。そんなことを思いました。