はじめのはじめ

二次元傾倒な日々。

『青春のアフター』の話。

 青春の思い出は、その後積み重ねてきた現実の日々に勝てないのか。数日前に『青春のアフター』を読んでからというもの、そんなことをぐるぐると考えていた。
 青春の思い出を、そのままの強度を保ったまま抱え続ける。そんな狂気じみた人間を描いた作品は、本作以外では『恋×シンアイ彼女』が真っ先に浮かんだ。そう、このテーマは俺のなかで新島氏が既にどでかい壁をつくってしまっていた。そう言えるくらいには、俺はあの作品を認めている。突然いなくなってしまった好きな人のことをただ思い続けるだけの日々に、はたして意味はあったのか。そこに対する答えが正反対というだけで、この2作は非常によく似ている。ファーストインプレッションが、「この作品、どうやって消化すりゃいいんだよ……腹の中にずっと残ったままで、他のものがなんも入んねえよ……」なんていうところもそっくりだ。
 『青春のアフター』のまことにしろ、『恋×シンアイ彼女』の洸太郎にしろ、青春の終わりを得ないまま長い年月を過ごした。青春が終わらなくても世界は回る。地に足がついている以上、時間の流れにのっている以上、いやがおうにも。その過程で記憶は薄れていくものだ。……けれど、世界の歩みと反対方向に走ろうとすることはできる。時間の流れに流されまいと水草にしがみつくことはできる。本作の重要人物である倉橋は、そういう姿に憧れを感じたのだ。そして、青春の思い出を抱え続ける日々が報われるにしても、そうでなかったとしても、それでも残るものはある。本作はそれを、『祈り』ではなく『呪い』として描写している。それはもう徹底的に、そうまでして青春を否定する必要があるのかと思うくらいに。
 そう、本作は青春の残滓──いなくなってしまった好きな人を思い続ける日々──を、意味のあるものとして昇華させてなどいない。徹底して、おぞましい怪物として描写している。『恋×シンアイ彼女』がグロリアスデイズと名付けて昇華したものを信仰する倉橋に、さくらが「皆が苦しんだのはぜんぶあんたのせい」と言うことで、いもしない人を想い続けて時間を無駄にすることを否定している。そんな日々が、光輝いているわけがない、と。そして、青春という名の怪物は、その後の人生で積み重ねた吹けば飛ぶような紙切れの思い出が集まってできたロボットの拳を受けて霧散するのだ(4巻参照)。
 かくして青春は敗北する。「怪物とロボットが面倒なものを全部こわして二人っきりになると開かれる」ような隠しルートとして描かれた、まこととさくらが本来過ごすはずだった奇跡のような青春の日々ですら、みい子と積み重ねた記憶の前に崩れ去った。隠しルートなんていうのは所詮一種のバグみたいなもので、ズルして最高のハッピーエンドを覗く方法でしかない、と。地道にこつこつと積み上げることがハッピーエンドへつながる唯一の道なんだ、と。ああ、なんて正しいんだろう。なんて素敵なんだろう…………ふざけるな。
 自分で書いていて、なんだか胸糞悪くなってきた。どうしたことだろう。俺は本来、正しい方を向いている展開が好きなはずなのに。あのおぞましい青春という名の怪獣を、『それでも意味はあった』なんて言葉で昇華させたり、別れの言葉を告げて光の射すほうへと進んでいくような作品が好きなのに。けれど何故か、こんな『正しさ』を否定したくなっている。おぞましいなにかを、おぞましいままで美しく感じるような狂気に身を任せたくなっている。……わかっている。こんなのは所詮ただの『ふり』で、向こう側に立っている人間からすれば憤慨ものだろうし、そうすべきものだ。それは寂しいけれど仕方のないことで。此方と彼方を結ぶ橋は、自由に行き来できてはいけないのだ。何があっても、それだけは許されない。……ああ。だけど本作は。それでも、橋の此方から彼方のことを想わせる。どうしてだろうか。考えたとき、本作が世間一般のそれと同じく『正しさ』が勝つけれど、それをどこか否定したいような香りを出すことで、『正しさ』への反逆を試みているように感じるからかもしれない。
 正しさという大きな圧力に対する、微々たる抵抗。それは、駄々っ子の拳のような力弱いものだけれど。それでも俺の心を搔き乱してやまない。