ラブピカルポッピーはじめました
冬の日のこと。
映画『きみの色』で一番美しいと思ったシーン。
昨日の夜、『きみの色』を観てきた。
色々書こうと思っていることはあった(例えばトツ子にとっての美=神の変化とか)んだけど、ただ一言、
「聖夜の教会のシーン、美しすぎるだろ……」
に俺の感想のすべては集約されてしまうんじゃないか。そう思ってしまうぐらい、あのシーンは素晴らしかった。
抱え込んでいる悩みを打ち明けることができる相手がいない。そんな3人の高校生、トツ子、きみ、ルイが出会い、惹かれ、バンドを組み、共に過ごすようになって。けれど、仲が深まっても、打ち明けることはできない。トツ子は「人の色が視える」という特殊性から、きみは作り上げられた期待から、ルイは離島唯一の医者の跡取りという立場から。
この映画は、高校生の心の機微、それだけがひたすら丁寧に描かれているわけで、びっくりすることに「衝突」や「悪意」すら、夾雑物として取り除かれている。「じゃあどうやってカタルシスを生み出すのか」に対する答えが、あのシーンだ。そしてそれが、「変えられないものを受け入れる心の平穏、変えるべきものを変える勇気、そして、変えられないものと変えるべきものを見分ける知恵」の答えでもある。
しんしんと雪が降り積もる聖夜。ロウソクの灯りがゆらゆらと照らす教会の中。世界はもうすっかり、トツ子たちだけになってしまったようで。3人は初めて、自分の悩みを告白する。ここで面白いのが、その告白は他の2人からの助言を求めるようなものでは無い、ということ。口にした言葉は、決意表明というか、もう既に答えを得ている「悩みだったもの」を相手に聞いてもらうだけ、という雰囲気を孕んでいたように思う。そしてラジオから流れるジゼルをきっかけに、トツ子が踊り、きみとルイが奏でる。
美しい……。もう、このシーンが撮りたいからこの映画を作ったんじゃないのかっていうぐらい完璧すぎる。あの瞬間、聖夜の教会はまぎれもなく3人のためだけに存在していた。
これから先も、3人は様々な世界の波に囚われることがあるだろう。けれど、あの聖夜の教会の記憶はいつまでも心の中に灯っていて。それはさながら灯台のように、自分の居場所を教えてくれるはずだ。
三回忌のこと。里村茜のこと。
昨日、祖父の三回忌があった。母親から事前に連絡があった時、「あれ? もうじいちゃんが亡くなってから3年も経ったのか?」と思ったが、なんということはない、数え年で考えるため2年で執り行われるものらしい。
それほど大掛かりでもなく、実家に集まった親戚も近しいところだけで合計10人にも満たないぐらい。あまり効きがよくないエアコンがごうごうと音を立てるなか、正面に見えるつるっとした後頭部に汗が流れていくのを眺めながら、念仏を唱えた。1時間にも満たなかったと思う。坊さんは用意した麦茶を飲み終えると、祥月命日はいつもより時間をかけて故人のことを皆さんでお話しください、というようなことを言い帰っていった。
法事は、今を生きている人たちのためのもの──まあ、よく耳にするような言葉だろう。
有機体がその活動を停止した時、それはまぎれもなく終わりで、行き止まりで、その先は無い……はずだ。死んだ人間本人にとって、死以降の世界を観測することはできない。せいぜいできることといえば、死を迎えるまでの時間に、死後の世界を憂うことぐらい。所謂、終活ってやつだ。
いつだって、なんだって、生きていかなくては、歩んで行かなくてはならないのは残された側だ。自分のなかで気持ちの整理をつけたり、誰かと思い出話をすることで心の奥に蓄積された滓を発散させたり。そうやってなんとか生きていくための術のひとつが、法事なのだろう。
ひとつの死によって、世界の質量は減っているのか増えているのか、はたまた全く変わっていないのか。よくわからない。
※
そんなことを考えていたら、里村茜のことが頭をよぎった。ONEリメイク、里村のシナリオだけ読んだんすよ。
その人のために何かをしてあげたい、笑っていてほしい、そのために何ができるのかついつい考えてしまう。そういう気持ちをして、愛だというのであれば、俺は里村のことを愛している。……いや、愛していた。だって、里村は浩平に救われたからさ。浩平の隣で、陽の光の下で、笑っているから。いいじゃん、それで。
12月の雨の下、ピンク色の子どもっぽい傘を差したソイツは、無造作に雑草が生い茂る空き地にひとり佇んでいた。
無口で、不愛想で、感情が読みづらい。けれど、中空を眺めるグリーンの瞳はどこか、寂しそうで。どういうわけか、無性に彼女のことが気になった。雨が降っていると、ついつい考えてしまう。彼女はまた、あそこにいるのだろうか? あの細い体で、くしゃみをしながら、ただひとりで。
読み進めていくほど、里村のいろいろな側面が見えてきた。料理が好きなこと。昼休み、中庭に座って膝のうえにちょこんと載せている可愛らしい弁当箱の中身は、彼女が朝から用意したものだ。そんなわけだからてっきり寝起きがいいものと思っていたら、実は朝が弱いこと。弁当の下ごしらえはできるだけ前日の夜に済ませているらしい。布団から身体を起こし、そのまま寝ぼけ眼でぼーっとしている里村の姿を見てみたい。できることなら、パジャマ姿の里村を抱きしめて、首元に顔を埋めて彼女の香りを味わいたい。存在を感じたい。里村は、どうしても『薄幸の美少女』という印象があるから線が細くて力強く抱きしめたら壊れてしまうようなイメージで見られがちだろうけれど、そんなことはないのだ。以外に肉付きもよくて、柔らかな感触を感じるだろう。きっとそうだ。
話がそれた……。あと、実は人の話をしっかり聞いているということもわかった。一見すると無口だと感じるのは、相手の言葉をしっかりと咀嚼して考えているからなのだろう。自分をしっかりと持っていること。「嫌です」という意思表示をはじめ、自分の芯がしっかりしていて、それに従って行動しているみたいに。なんというか、里村に「嫌です」って言われても、突き放されたという感覚が全くないのだ。どうしてだろう。嫌味がない、ということがストレートに伝わってくるからだろうか? 彼女は単なる意思表明をしているだけで相手に対して嫌悪があるわけではない、という。浩平が、「一度くらいは、茜の慌てた顔を見てみたい」と言って、名状しがたい味のジュースを飲ませたりするんだけど、その気持ちはとてもよくわかる。読んでいて、「そうだよな、俺も見てみたいわ」と強く頷いてしまった。驚いた顔や、焦った顔、怒った顔だって、見てみたい。結局、その試みは失敗するんだけれど。
そして、最後に。諦めが悪いということ──。
雨の日は必ず、あの空き地にただひとり佇んでいるのは、幼いころ唐突に居なくなってしまった──えいえんに囚われた──幼なじみの男の子を待っているのだ。不可思議なことに、存在と同様に皆の記憶からも消えてしまった幼なじみを。なぜか自分だけが覚えている幼なじみを。きっと、好きだった男の子を。
その事実を知ったときの、浩平と俺のショックは、例えようもない。ふたりしてものの見事にフラれてしまった、それも間接的に。想いを伝える前に、伝えるタイミングも失ってしまった。自分の好きな女の子は、けれど居なくなってしまった存在をただひたすらに待ち続けているのだ。浩平は、間違いなくこのとき、自分が里村に恋をしていたことを悟ったはずだ。胸をえぐられるような痛みは、やり場のないやるせなさは、それでもいっこうに収まらない里村への気持ちは、恋だということに。
ここで、冒頭の話につながる。
世界から失われてしまった存在、それを想い続けるということ。死別だったら、まだ救いがあったのかもしれない。誰でも知っている。死んだ人間が生き返ることはない。そんな道理が、絶対的な断絶となって立ちはだかるから。残された側は、どれだけ時間がかかろうとも、どうにかしてその世界と折り合いをつけなければならない。人ひとり分の思い出という質量を抱えて生きていく、というのも、ひとつの生き方だ。
けれど、里村の場合はそうはいかない。彼女の幼なじみは、死んでしまったわけではないのだ。不可思議に、不条理に、唐突に、世界から消えてしまった。だから、もしかしから突然帰ってきてくれるかもしれない。そして、さらに里村を追い詰めているのが『幼なじみのことを覚えているのが自分だけ』だということ。もし、もしも、自分も彼のことを忘れてしまったら、彼がこの世界に生きていたという証は、何一つなくなってしまう。
『そうしたらきっと、彼が戻ってくることは二度とないだろう』
なんの根拠もない理屈。けれど、きっと里村はそんな風に考えていたのだと思う。
人ひとり分の存在の証明。
それが、里村が背負い込んだ、誰にも打ち明けることのできない秘密だった。あと、どれくらい待てばいいのだろうか。もう、自分のことなど忘れて、彼はどこか遠いところに行ってしまったのではないか。そんな思いを抱えながらも、自分だけがまだ彼を覚えている、という事実がどうしようもなく里村を縛り付けて離さなかった。諦めが悪ければ悪いほど、八方ふさがりだ。
「お前は……ふられたんだ」
そんな台詞を言ってくれる、折原浩平がいなければ──。
断言できる。
浩平以外に、そんなことを里村に告げることができる男はいない。少なくとも俺には絶対に無理だ。俺には、里村が傷つかないような体のいい上っ面な言葉で彼女を慰め、あわよくば彼女が自分でそのことを理解してくれるのを待つことしかできない。俺は、この場面でもう一度、里村にふられている。けれど、
「……ありがとう」
そう言いながら、涙を流した時点で、里村は完全に救われた。だから、いいんだ。その涙を流させたのが俺じゃなかったとしても、よかった。
それ以降のことを語るとしたら、この物語の中でも屈指の美しい場面である、「だから、あなたのこと忘れます。……さようなら。本当に好きだった人」のことになるだろう。けれど、あのシーンは、あの背中合わせのシーンは、浩平と里村が積み上げてきた物語の頂上であって。そのことを考えたら当然の帰結であって。誤解なきよう語っておくと、当然あの場面をむかえるまでに里村にとって耐えがたい葛藤があったはずだ。一度は解き放たれたえいえんの呪縛が、ふたたび歩み寄ってきている。また自分だけが抱え込まないといけないのか。だけど、自分の鎖を断ち切ってくれたこの人を忘れることなんてできるわけがない。そんな思考がとめどなく溢れて渦巻いていたに決まっている。そして絞り出された言葉が、あれなのだ。ささらない訳がない。
けれど、俺が一番好きなシーンは間違いなく上の「……ありがとう」の部分だった。たったひとことの浩平の言葉で、自分を縛り付けていた鎖が断ち切られたことを感じた里村だからこそ、浩平との離別と対峙することができた。そして、最終的に浩平と手を繋ぎ──「恥ずかしいから嫌です」──、誕生日プレゼントを買いに歩んでいくことができたのだと。
今日もどこかの夏空の下、里村は笑っている。