はじめのはじめ

二次元傾倒な日々。

たまには日記

 

 それは、お昼のことでした。

 

 今日の俺の予定は朝から外回りで、先輩の運転する車に乗っていくつかの業者を回っていました。一通り仕事を終えて、時刻は十二時過ぎ。そろそろお昼ご飯にしようか、ということで近くの公園まで向かいました。先輩は1ヶ月前に入籍したばかりの新婚さんで、愛妻弁当を持ってきているからです。ちなみに俺は、ゆのっちが朝眠たいのを我慢して作ってくれたラブ弁当(意味深)です。ああ、なんて幸せ者なんだ……。すいません、うそです。普通に弁当です。

 

 

 

良く晴れていましたが、肌に感じる風が比較的心地よい温度で、絶好の公園日和です。これは近所の子供達で賑わっているかなー、などと考えながら着いた先には、三人の子供がいました。

 

 男の子一人と、女の子二人。年齢は7歳くらいでしょうか。女の子の一方は少し幼く見えましたので、6歳くらいかもしれません。もしかしたら、男の子の妹かもしれません!(すごい嬉しそう)。

 

年下の女の子は長い髪をポニーテールに括っており、着ている青のワンピースが太陽の光に映えて綺麗でした。もう一人の女の子は、肩にかかるくらいの長さのくせっ毛が可愛らしく、ピンクのTシャツに白のスカートという落ち着いたイメージを与える服装。男の子は青色のシャツに短パンで、活発そうな印象です。

 

 

 公園には、彼ら三人しかいませんでした。せまい公園です。あるのは滑り台とブランコ、鉄棒とそして屋根のあるテーブル。彼らはそのテーブルにお弁当をひろげていました。遠巻きから見たので、何を食べているのかはわかりませんでしたが、仲良く三人でお昼ご飯を食べていました。

 

 入ることができませんでした。そこに踏み入るなんて、誰にも許されないことだと。8月27日、夏休みの終わりがすぐそこまで迫ってきている日。季節の移り変わりの準備を、ほんの少し肌で感じとれるような、そんな日。

 

きっと、彼らにとっては『いつもの』事だったのだと思います。天気のいい、休みの日に、食べ物を持ち寄って公園で遊ぶのは。あくまでも日常生活の一部として存在している、楽しい事のひとつ。まだ、それが保たれている。そんな幸せな空間に、よくわからない大人(おっさん)が入っていっていいわけがありません。結局、公園脇の駐車場に車を停めて、弁当をつまむことになりました。それすらいけない事のような気がしましたが。だって気になるじゃないですか!

 

  

彼らはそんな我々を気にすることもなく、ご飯を食べ終わると少し休んでからぴょんぴょんとうさぎのように跳ねだしました。テーブルの上に登り、そこからも大ジャンプです。身長伸ばし体操も真っ青のジャンプっぷりです(水のマージナル3巻読み終わりました)。ジャンプしたり、走ったりと、本当に元気です。あと、テーブルの上に登るワンピースの女の子のぱんつが見えたような気がしましたが、気のせいでしょう。

 

 

ゆのっちの愛妻弁当を食べながらそんな光景を見ていて、少し不思議な気分になりました。異性の幼なじみというものは、一体いつまで同性の友達よりも優先順位が高かったのだろうかと。

 

 

 

俺の場合は小学校入学までが区切りだったと思います。それまでは、他の友達以上に仲良くしていたのに、小学校に入学して気の合う友達が見つかり、それきり疎遠になってしまいました。おしっこの見せ合いっこもしていません。あくまでも俺の場合ですので、まったく一般性はありませんが。

 

しかしそうでなくても、高学年、中学校と進んでいくにつれ、同性でのコミュニティーが強く形成され、異性と友達感覚で遊ぶということは少なくなっていくでしょう。学年が上がるにつれ、異性と遊ぶことへの風当たりの強さはまぎれもなく存在し、より強固なものになっていきました。その風を越えていくことは、並大抵の関係では不可能でしょう。それこそ、彼(彼女)と遊ぶことを悪くいう奴とは縁を切るというくらいの覚悟は必要になってくる。

 

水月で、瀬能透矢が「花梨ちゃんのこといじめるんなら、庄一も他のみんなも、もう仲間じゃない」と言ったみたいに。

 

 

 けれど、そんな壁を乗り越えていった先の未来があるならば。ああ、だから多くの主人公は、なんだかんだで幼なじみにダダ甘なんだなと、ごく当たり前のことをしみじみと思いました。幼なじみすごい……!

 

幼なじみ、はじめました。

ぱわーおぶすまいる、二巻まで読み終わりました。

某氏が面白いと言っていたので買ってみたのですが、読む前に、タイトルから少し思うところがあって。無邪気な女の子が笑顔の力でぐいぐい主人公を引っ張っていく、そんな物語を書くシナリオライターが、ふと頭をよぎってしまいました。

結果、この漫画の作者も影響を受けたのかな、なんてバカみたいな想像をしながら読むことになりました。そのため、若干、独りよがりな感想になっているかもしれません。

 

 

 

 『幼なじみ学園コメディ』と一巻の帯にあるように、この物語は篠華まゆと、その幼なじみ蒼葉宗馬を中心に回っていきます。要約すると、幼なじみの男女が仲睦まじいままに高校生となり、傍目からは付き合っているんじゃないかと勘繰られるほどペタペタしながら、クラスメイトの虎道環、上山景佑、叢園寺観久らと、平凡だけどかけがえのない日々を過ごす……という構造としてはよく見かけるものであって。それでも心に突き刺さったのは、幼なじみの一つのかたちが誠実に書かれていると思ったからかもしれません。だからこうやって、慣れない文章を書いて、何らかのものを残そうとしている。

 

 なんて、恰好をつけて書きだしていますが、要はまゆさんとそーちゃんにやられてしまったわけです。だって、一巻の冒頭から『そーちゃん』と、ちゃん付け呼びですよ! そりゃあ幼なじみ好きとしてはたまりませんわ。まゆさんがちゃんをつけて呼ぶ男子は宗馬だけなんです。宗馬が名前を呼びすてにする女の子は、家族以外ではまゆさんだけなんですよ。ずっと昔から二人の間では普通のことで、それは高校生になるまで変わることはなかったのでしょう。そのことが二巻の某エピソードで関わってきます。

 まあ、その話は置いておくとして。まずは篠華まゆについて。

 

 

 篠華まゆ。一人称、まゆさん。無邪気なワンコ。嫉妬深い……というよりは恋愛感情を意識しておらず、宗馬が少しでも別の女の子のことを考えると、構ってほしいアピールをする可愛い。頭を撫でられることが好き、というより宗馬の手をとって撫でさせる可愛い。 

と、羅列しましたが、一貫してワンコとして描かれています。表情と感情が直結していて、悲しい時にポロポロ泣いて、怒った時にぷくっと膨れ、嬉しい時には満面の笑顔。宗馬に撫でられたり褒められたりした時にデレデレとにやける仕草は、もはや尻尾をパタパタさせた犬そのもので、とんでもなく可愛いです。

 しっかし、彼女の恥じらいポイントがよくわからない。寝起きにはだけた胸元はダメ、お風呂上りのバスタオル姿はオッケー、お姫様抱っこに至っては大喜び。宗馬君、太ももに直接手を添えてますよ……!

 余談。一人称がまゆさんと、少し変わっていることについてですが、宗馬の過去エピソードのこともあり、彼のお姉さんになって支えようとした際に自分で言ったものが定着したんじゃないかなー、などと思ったり。実際に宗馬が、彼女に救われたことは言うまでもないことでしょう。

 

 

 蒼葉宗馬。家事の出来ない妹と母あり。そのため家の家事全般を行う内に、のめり込んでしまう、というこれまたよく見かける人物。まゆさんの新しい服に気づき、似合っていると言ってあげることのできる男の子。まゆさんとは異なり、彼女を思いきり異性として認識していますが、恋愛対象という一線を越えられず『まゆのお父さん』を自認──悪い言い方をするなら逃げ道に──しています。泣く子には勝てない、といいますか。目を潤ませたまゆがお願いすると、どんなことでも断ることができないその心に賞賛を。

 

 

 と、こんな二人がですよ。人目のあるなしに関わらずいちゃいちゃしていたら、そりゃこっちはもうだめです。部屋の中を転がりまわりながら──わりと日常茶飯事ではあるが──、うぎゃーっ、と奇声を発することしかできません。そしてその後、悟ったような顔で「ああ、捨てたもんじゃないな……」などと恥ずかしい独り言をいうおっさんを許してください。むしろ幼なじみください。

 以下、とりとめもない雑感です。

 

 

 

 一巻75ページからの、お好み焼きの話。

宗馬が冒頭から美味いと言っているのを気にしたのか、お好み焼きの作り方を教わるまゆさん。出ましたよ、幼なじみの『あーん』が。結局、二巻までを通して、宗馬は蒼葉家、篠華家の人からの『あーん』しか受けていないと思います。それは、泣く子モードのまゆさんには勝てないということなのでしょうか。まあ、他の人がしようとすると彼女が邪魔するためでしょうが。逆を言えば、家族までがまゆさんの許せるラインなのかもしれません。

 しかし、宗馬は極力まゆさんを独占しようとしない──独占したいという感情のあるなしは別として──のに対して、まゆさんは宗馬を独占しようとしていますね。それは自覚なしの恋愛感情もあるだろうけれど、幼い頃の約束によって、ずっと宗馬の側にいようとしているから、とも考えられます。

 話がそれましたが、この回、最後にまゆさんは「お好み焼きホントにおいしかった……?」と聞いています。らしくもないこの仕草は、75ページで宗馬に聞いた答えが、彼女の期待するものではなかったからでしょうか。もしくは『あーん』を邪魔するために間に入って食べた観久のお好み焼きが、あまりにおいしかったから? けれど、そこで頭を撫でて、からからと笑いながら「日本一だった!」と返せる蒼葉が、彼女の幼なじみで本当によかった。ことお好み焼きの味で、蒼葉の日本一がどれだけの言葉であるのかを考えると、そしてそれを満面の笑顔で言える蒼葉を見ると。ああ、やっぱりこの漫画は特別だなぁと思います。後に続く最後の4コマも、綺麗にしまっています。

 

 

お好み焼きの次、83ページからのまゆさんコントローラーの話。

宗馬の股の間に、ぽすん、と腰を下ろし「まゆさんコントローラーっ(はあと)」とかね、「そーちゃんがまゆさんを動かす事でまるでまゆさんが動かしているような気分になる作戦っ!!」(長い……)とかね……。もう完全に殺しにきてますよね。息の根止めにきてますよねっ。

 そこでまた宗馬が思うんですよ、「あ……コイツの体ってこんなに細かったんだな……」とか! なんですかこれは! 股の間におさまってしまう小さな体だとか、結んだおさげの間の細い首筋だとか、すべすべした白い肌の手触りだとか。ほのかに香る女の子特有の、いい香りだとか。そんなものを感じてるんですよ、幼なじみの体に! ぎゃー!

 そしてご褒美としての膝枕耳かきですよ。あの蒼葉が、素直に、従ったのです。泣く子モード無しに。なにが「何か……幸せかもしれない……」だ! 

俺にも太ももの感触を分けてください。というかこんな幼なじみをください。

 

 

 

最後に二巻の喧嘩について。

観久と宗馬が一緒にお風呂に入っているところを、まゆさんが目撃したことから始まった二巻のクライマックスのお話。いつものようにまゆさんが怒り、蒼葉が謝って頭を撫でて解決、とはならなかった。やはり大きなポイントは、『篠華』と蒼葉に言われたことだったんでしょう。蒼葉もまゆさんに『蒼葉くん』と呼ばれることがスイッチとなった。今まで彼女に本気で怒っていなかった蒼葉がムキになってしまうほど。

上の方の文でも触れましたが、きっと二人の中で、『まゆ』と『そーちゃん』は、他に変えられないほどに動かし難いものだったのでしょう。だからこそ、二人はあそこまで頑なだったし、仲直りの際の『まゆ』という呼び方に反応した。手と手を繋いで、歓声の中、満面の笑顔のまゆさんに引っ張られるようにゴールする二人。

続くエピソードが、仲直りのしるしとして、まゆさんが蒼葉にお手製ケーキをふるまうというのもいいなぁ……。そこでもまた『あーん』登場。もう、げんかいですよ……。

そして結びの4コマで彼女が言っている「明日はまゆさんが起こしてあげよっか!」は、きっと、喧嘩の最中に蒼葉に言われた「もう絶対に朝起こしてやらないからな!!」を受けて、朝起こしてもらえる幸せに気づいたから。

 

さて、三巻の冒頭では、まゆさんは蒼葉を起こしに行くことができるのでしょうか。先が非常に楽しみな作品です。

何かの端っこ

 創作物を読んでいて、ふと、『ああ、この作者は何か大きい十字架を背負っているのかな』と思うことがある。十字架と一言でいったが、まあ文字通り人の死とか、何らかの傷であるとか、そんな感じのものを。そしてその経験が、彼らを作家たらしめているんじゃないかと思ってしまう。

 具体的に例をあげると、橋本紡さんや片岡ともさんあたり。彼らは何かの影を追いかけながら、小説を書いているように見える。決して届かない実体に少しでも近づくために、ああでもないこうでもないと悩みながら文字を打つ。その姿に、作品に、俺はたまらなく惹きつけられる。

 

 一般的な創作スタイル(といわれているような何か)からは遠く、不健全な方法であるといわれるかもしれない。なぜなら、きっと実体に追いつくことはないのだ。どれだけ先に進んだとしても、忘却のスピードには追いつけない。そして失ってしまう。わずかばかりの残滓を置いて。

 そこはきっと、想像もしたくないほど何もないのだ。……たまらなく怖い。あんまりじゃないのかとさえ思う。けれども彼らは飛び込んでいったんだ。きっと、そうする以外にどうしようもなかったのだろう。

 

 気持ちというものは不思議で、こうして文章にしたり、誰かに話してしまうと多少ではあるが落ち着いてくる。それは、自分の中の気持ちが文字にこもったり、誰かに移ったり、または大気中に霧散したりするからだろう。エネルギー保存の法則というやつだ。

 何がいいたいのかというと、彼らが抱えた何かは、少なからず俺の中にも入っているということで。十字架の主は、ひっそりと息づくのである。

サナララR3章の話とか

某エントリ読んで、最近抱えていたものへの回答に近づいた気がしたものの、twitterでは不自由だったので、こうやって場所をつくってみました。気が向いたときに何か書いていく予定。

 

 最近抱えていたもの、といいましたが、具体的にはサナララR3章の話です。ネタバレを充分に含んでいますのであしからず。

 

 

 当然のことですが、サナララRはゲームなので、プレイしている俺が彼女達にしてあげられることはないわけです。そりゃ選択肢を選んでお話をGoodEndに進めることはできますが、それは『主人公がその選択肢を選んだ場合の未来をみる』という選択であって、俺が彼女達に何かをしてあげられているわけではない。

 

 仮に、かりにその物語が劇中劇のようなものであったとして、幕が降り役を演じ終わって世界から出てきている登場人物がいたとしても、俺は「おつかれさま」ということすらできないんです。

 

 

 だから、俺にとって物語は始まった瞬間から終わっている。いや、その物語に登場しない誰にとっても、そうなんでしょう。こればっかりは、どうしようもない。だから俺は、情けないけれど、主人公に任せるわけです。

 

彼女を救ってやってくれ、と。

 

おまえはいったい何様だ、って感じですね。まあそんなことを気にすることもなく、大抵の場合において、主人公達は見事にヒロインを幸せにしてくれるのですが。

 

 もちろんこれは、主人公の人生を大きく曲げさせる可能性を持っていて、それが肌に合わないとどうしても受け入れられないお話になってしまうわけですが。俺にとって『パパのいうことを聞きなさい!』がそれにあたるわけで、どうしても楽しく読めなかった。

 

 話を戻します。

 俺は自分ではどうすることもできないから、主人公にすべてを託している。彼女を救ってくれと、彼女を笑顔にしてくれと。

 

 けれど、主人公にとっても、彼女の物語がすでに終わってしまっていたとしたら。

サナララR3章はそんなお話。主人公は『高畑』、ヒロインは『三重野』。彼らは最後まで、『高畑君』と『三重野』だった。

 

 高畑は三重野に触れることができる。喋りかけることができる。けれど三重野の一生は、お話が始まった段階でもう、終わってしまっている。これは、高畑にとっても、どうすることもできないものだった。そうした場合、俺はどうすればよいのだろう。決められた終点へと向かう電車に乗ったみたいな彼らを。忍び込んだ夜の学校で、二人だけの授業を楽しむ彼らを眺めること以外に、できることはなかった。

 

 

 最後のシナリオで、三重野は笑ってるんですよ。最後にたくさんのものを高畑君からもらったから、って。誰にも言えなかった自分の思いを、高畑君に託せた気がしたから、って。そういって、笑うんです。

 

 けれど俺は、俺が彼女から受け取ったものはどうすればいいんだろうか。何かを受け取ったら、それ以上のものをあげたくなるんですよ。それがずっと続いていけばいいなって、思ってしまうんですよ。それができない、なぜなら彼女はこの世界にいないんだから。あの世界にも、もういないんだから。

 

 

「位置について……よーい……ドンっ」

 そういって、朝日と入れ替わるように俺達の目の前から消えていった三重野。彼女が笑って暮らしている未来がみたかった。ゆう子ちゃんの喫茶店で高畑君と待ち合わせしている内に、のぞみ先生達と仲良くなっていって、春が終わって夏になり、夏休みにみんなで海に行く。そんな未来を。けれど、そんな妄想は俺の自己満足でしかなくて、三重野から受け取って抱え込んだものを、どうすればいいかわからなかった。このセンチメンタルでアマレットで、ネガティブな物語をどうやって受け入れればいいのか、わからなかった。

 

 

 

 そんなわけで、ひとり悶々としていたわけです。おかしいなぁ、サナララでプレイしたときにはここまでひきずらなかったんですが……。

 

 けど、今日ふっと納得がいった。あー、今はそれでもいいのかもしれないなって。何か受け取ったものがあるということは、それは次に誰かに与えてあげられることだということがわかった。ぶっちゃけこれがサナララのテーマだろうというのに、全然気づけていなかったのが恥ずかしいくらいです。

 

しにたくなるようなことも、まーあるけれど。受け取ったものは、忘れないでとっておけたら、いつか誰かに渡せるかもしれない。