はじめのはじめ

二次元傾倒な日々。

サマポケ感想。灯台の少女。

 紬ルート読了。……ずるい。ほんとずるい。結局さ、『最後は、どうか、幸せな記憶を』に帰結する物語をやられたらこっちはどうしようもないわけですよ。抗えるわけがない。
 そんなわけで、よくわからんくらいぐちゃぐちゃに泣いてたわけですが、じゃあ紬ルートが物語的に上手かったかと言われると、うーん……微妙です。このルートって、紬といかに最後まで楽しく過ごすかを描いてるわけで、それは成功してると思うんです。つまり、物語上の主目的は達成できている。現に俺はずびずびに泣いてるわけですし。けれど、それ以外の部分が弱いというか。もっとも大きいところで、静久の存在意義の掘り下げですね。紬と羽依里と静久。三人一緒で過ごす夏休みで、そこにこだわりがあったわけじゃないですか。静久にとって紬は、「残りの夏休み全部をあげる」ことになんの躊躇もしないような存在で、それは、羽依里にとっての紬と比べてもなんら遜色はないんですよ。だからどうしても、そこに理由を求めてしまう。
 あと作中で、「夏休みって、全く話したこともなかった奴と遊ぶようになって、めちゃくちゃ仲良くなって、時間が無限に感じられて……でもそんなことはなくて、終わりを嘆いて」みたいなことを羽依里が言ってたと思うんですが、静久も最後に「わたしにとって、紬は夏休みそのものだった」とか言うんですよ。その言葉に、もやもやしたものを感じてしまうのです。

 この夏休みは、三人で過ごした奇跡みたいに美しかった季節は、紬が百年近くの間、ツムギの代わりを勤めていたことに対するギフトに他ならないわけで。梅雨の終わりに加藤のばーちゃんが亡くなって、ツムギを知る人間が誰もいなくなって、本来、紬の役目──いなくなったツムギのことを皆が忘れないように──はそこで終わるはずでした。それでも紬がまだ残っていたのは、長雨の季節が終わり初夏の香りが感じられた空の下を歩き出したのは、「お前がやりたいことを、やりなさい」という言葉をくれた人がいたからです。それはまぎれもない、紬が手に入れた最初で最後の夏休みだったわけです。それをさ、紬は夏休みそのものみたいな言葉で飾ってしてしまうのは、どこか違うなぁと思う。

 確かに紬は、たくさんの思い出を抱えて、夏の終わりと共にに還っていきました。そして、結果的には、来年の夏にまた、灯台のドアからやってくることになりました。けれどそれは、紬のこれまでの頑張りと、何人もの優しさと、いくつかの偶然の末にたどり着いた結末です。羽依里と紬と静久は、この眩しかった季節を三人一緒に駆け抜けた、友人だったわけじゃないですか。残される者、還っていく者という違いはあれど、それは対等の関係に違いない。だから、残された者がこの夏の思い出を胸に、涙を流し嘆くのも、それでも前へ踏み出すのも、来年の夏に紬にまた逢えるかもと淡い期待を抱くのも別にいいんです。思い出との向き合いかたは、人それぞれだから。けれど……紬を象徴化してしまうようなやり方は、共に駆け抜けた友人を同列から外して、どこか神聖視してしまっている気がする。だから、「紬は夏休みそのもの」という言葉には、もやっとしたものを感じたのだと思いました。
 あー……完全にいちゃもんばかり書いてしまいましたが、ぐちゃぐちゃに泣いたことは事実です。よかったっす。