「君たちはどう生きるか」感想。あるいは、墓碑銘の素晴らしき混乱について。
まず、この作品を観た直後の感想は、「よくわからない」だった。
もともと、エンタメに振ってない作品という前情報だけは持っていたから、自分なりの解釈が必要な映画なのだろうと身構えてはいたのだが、それでも結局、本作が伝えたいことがよくわからなかった。作品の命題である「君たちはどう生きるか」の前提が、どうにも心の中に入ってこなかったのだ。「何」があって、「どう」生きるのかを問われているのか。それがわからなければ、考えようも無いだろう。 ……とはいえ流石はスタジオジブリで、よくわからない作品であるにも関わらず、僕は飽きもせずにスクリーンを観続けていたのだけれど。特に冒頭の空襲シーンの描写は、実際に熱が感じられるほど凄まじかった。
そんなわけで、家に帰ってからネットで色々な方の感想や考察を読んだ。
曰く。作中の異世界には、これまでの宮崎監督の作品を想わせる描写がちりばめられており、それが「物語の世界」と思われること。
曰く。作中の大叔父とは宮崎監督自身の暗喩で、13の積み木とは本作を含めた氏の長編作品と考えられること。
他にもさまざまな意見が散見された。
それらひとつひとつを、なるほど読み取る力が強い方々は凄いな、と思いながら読ませてもらった。おかげで、心の中でおぼろげだが作品の全体像が形作られてきた。けれど、肝心の本質が、自分としてはどうにもしっくりこない状態。本作とは、いったい何だったのか。その答えを見つけられずにいた。
そんな状態がどれくらい続いただろうか。思考が澱みから抜け、ゆるやかに流れ出したのは、「死」について考えだしてからだったと思う。
この問いを投げるには、あまりにも本作は「死」の香りが強すぎるのではないか。いや、むしろ「死」の香りしかないじゃないか。どうなってる。そう考えていた時、間違いに気づいた。
──いや、違うのか。
「どう生きるか」とは、こう問うているのに他ならない。すなはち、「どう死ぬのか」。
そう考えたとき、よくわからなかった本作が、驚くほどスッと心の中に落ちてきた。
宮崎駿は言っているのだ。
自分は、こうやって死ぬ。この映画は、自分の死に対して捧げられた墓碑銘だ、と。
少し、本筋からそれる。
「サクラノ詩」という作品がある。
稀代の天才芸術家である草薙健一郎が、病気のため死の淵にいる。彼と、その息子である草薙直哉はある少女を救おうとしているが、そのためには莫大な金が必要だという。健一郎が作品を描くことができれば金は手に入るが、病気で描くこともままならない。そこで、息子の直哉が、父親の未発表作品として贋作を創って売りさばく……という話。
その中で、完成間近の贋作を見て、健一郎はこんなことを言うのだ。
「これは、お前が俺に捧げた墓碑銘だ。だから俺は、ここに自分の名を刻む」「これは俺の作品じゃない。俺の死のために、草薙直哉が描いてくれた作品だ」「俺の墓は花であふれているだろう。だがそんなものは見せかけだ。本当の墓は、この絵の傍らにある」「A Nice Derangement of Epitaphs」(墓碑銘の素晴らしき混乱)「この作品はそう扱われるだろう。だが、それで良い」「これは、俺のための墓碑銘なのだからな」
墓碑銘の素晴らしい混乱。元はとある戯曲における言い間違いのセリフだが、この文脈ではTrompe le Monde(世界を騙す)として引かれている。つまり、意味の取違いがまた別の意味を持つ、ということだ。
“巨匠・宮崎駿の死”という言葉から真っ先に浮かんだのが、上述のシーンである。
……どうだろう。そう考えると、「君たちはどう生きるか」のクレジットが、これまでの宮「崎」駿ではなく、宮「﨑」駿というのも納得のいく話ではないだろうか。
つまり本作は、名監督「宮崎駿」の死のために、監督「宮﨑駿」が創った映画なのだ。
だから、究極的にはこの映画は、公開される必要はなかったのだと思う。なぜなら、これは宮崎駿のために創られた作品なのだから。それでも公開されたのは、「A Nice Derangement of Epitaphs(墓碑銘の素晴らしき混乱)」こそが、この作品のもうひとつの意義だったから。
そう考えたとき、「君たちはどう生きるか」という問いの意味も見えてきた。どう生きるかなんて、どうあっても個人個人の命題だろう。
というわけで、以下は僕なりの墓碑銘の混乱だ。他の人にとっては蛇足以外の何物でもないが、よかったら付き合ってほしい。
ここで、大叔父はどういう風にあの異世界を創っていったかを考えてみる。
人は誰しも綺麗なものを、正しいものを好む。それは当然のことだ。いったい誰が、自らすすんで汚いものを集めたがるだろうか。間違ったものを好むだろうか。
だから彼は、綺麗な物だけを集めてあの世界を広げていった。
……しかし、である。
綺麗で無垢なものだけを集めた世界が果たして美しいか、という問いに対する答えが、あの異世界だ。大叔父が招待した綺麗な小鳥セキセイインコは、いつしか人間を食らう生き物になっていた。ペリカンたちは空の果てを目指すことを止め、飛ぶことを忘れてしまいかけていた。
綺麗なものしか存在しないはずだった世界が、どうしようもないディストピアになっていた......なんていうのはよくある類の話だ。
現実の世界と、大叔父が創り上げた異世界。その両方を旅した第三者である眞人が、迷うことなく現実の世界を選択してしまうぐらいには、歪なのだ。戦争の最中である世界と比べてすら劣っている、それが綺麗な物を集めて作られた世界。
では、一体何が足りなかったのだろうか。
マクベスのように、「きれいはきたない、きたないはきれい」とでも言ってみようか?
……いや、本作にはちょうど、おあつらえ向きの奴がいたじゃないか。
正しさだけでは生きてはいけないのだ。人が生きていくためには、嘘も必要なんだ。
そういうことだろう? 友達。