はじめのはじめ

二次元傾倒な日々。

20231213

 活字苦手も直り、少女は大人になった。
 
 ヘブンバーンズレッドの『夏気球』から。最近の麻枝准の中でも随一の歌詞だと思う。
 ちなみにゲーム自体はかなり序盤で止めてしまったので、この曲がどういう場面で流れるのかはわからない。
 だから、以下に綴るのは単なる妄想だ。
 
 少女の祖父は図書館司書だった。長らく県立の図書館に勤務していたが、定年退職した後も家の近所にある町立図書館に非常勤で勤めていたのだから筋金入りである。
 世のおじいさんのご多分に漏れず、祖父は少女のことを目に入れても痛くないほど可愛がっており、休みの日には子供向けの物語を読み聞かせたりしていた。
 
 少女は、そんな祖父の声が好きだった。
 元気溌剌な主人公の男の子、相棒の気弱な子供ドラゴン、不愛想だが仲間想いのドワーフ、お調子者の妖精。個性豊かな旅の面々を見事にひとりで演じ分ける声も好きだったし、そよ風が流れる草原や光射さぬ鬱蒼とした森の風景を語るときの、いつもの祖父の声も大好きだった。同じ物語でも、母親に読み聞かせてもらったり、自分で読んだりするよりも、祖父の口から語られるほうが何倍も面白く感じられた。
 
 だから、当然の帰結というべきか。
 少女は、自分で物語を読むのが苦手になっていた。同じ話であるはずなのに、自分で読んでしまうとどこか、色褪せてしまう。最初は休日だけだった音読会は、いつしか毎晩のように開催されるようになった。もっと、もっと──とせがむ少女に、祖父は嫌な顔ひとつみせず、笑顔で「続きは明日のおたのしみ」と言うのだった。
 
 ある日の晩、いつものように祖父は「また明日」と言い、本を閉じた。
 けれど、明日が訪れることは無かった。
 朝、なかなか起きてこない祖父の様子を見に行った少女が目にしたのは、物言わぬようになっていた祖父だった。安らかな顔だった。秋雨が降っていた。
 
 葬式が終わってしばらく経ち、冬がやってきた。少女は雪の中を歩いた。
 雪が融け、春がやってきた。少女は桜の中を歩いた。
 木々が青づき、夏がやってきた。少女は陽射しの中を歩いた。
 本を開くことは、なかった。
 
 そうして季節はめぐり、何度目かの夏がやってきた。
 中学生になった少女は、学校から帰ってくるなり「暑かった~」とセーラー服のタイを引き抜いてパタパタと扇ぐ。
 そんな少女に、母親が言う。かねてから少女が欲しいとせがんでいた自室について、祖父の部屋だったところを片付けて使うのはどうか、と。
 
 あの日から一度も開けたことの無かった祖父の部屋の前に立つ。
 深呼吸ひとつ。ガチャリ、とドアを開ける。鼻腔をくすぐったのは、懐かしさだった。
 古めかしい本の匂い。
 きっと、母親がこまめに掃除をしていたのだろう。両側の壁に設けられた本棚や、窓際にあるテーブルの上には、埃ひとつ見られなかった。
 そうして部屋の中をゆっくり見まわしていた少女は、はっと息を呑む。
 いつも祖父が物語を読み聞かせてくれていたソファの脇。サイドテーブルの上に、あの本が置かれていた。
 おそるおそる、手に取り、ソファに身を預ける。
 栞がはさまれていたページを開くと、あの日の冒険の続きが、色鮮やかに戻ってきた。
 
 主人公の男の子が「久しぶり!」と手を差し出し、子供ドラゴンが「ま、待ってたよ」と微笑み、寡黙なドワーフが「息災じゃったか?」と肩を叩き、お調子者の妖精が「もう戻ってこないかと思ってたわ」と毒づく。
 そして、風景を語る声は、懐かしい祖父のものだった。
 
 しばらくして部屋から出てきた少女に、母親は洗い物をしながら「何か片付けてほしい物はある?」と語りかける。
 少女は首を横に振り、寝室から自分の布団を抱えてくる。
「あのままでいいよ。ありがとう、お母さん」
 そう言って、新しい自室に戻っていく。
 その後ろ姿を見て、明日の朝はきっと寝坊確定だな、と母親は苦笑するのだった。
 
 活字苦手も直り、少女は大人になった。